まとめ
私は、小学生の頃にいじめられた経験から、いわゆる「スクールカースト」の一番下に自分を位置付けていました。
私は嫌われる人間なんだと思い込んでいました。自分のダメなところばかりに目が行って。
嫌われるから人と接しない方がいい。
誰とも触れ合えないから楽しくない。
楽しくないけど、教室には行かなきゃいけない。
そんな風に自分を最底辺に位置付けて、居場所のない教室では死んだような顔をしていました。いつも不安だった。
それでも、ブラスバンド部、オーケストラ部、吹奏楽部、吹奏楽サークルで続けてきた音楽は心底楽しかった。夢中になって取り組みました。中学の合唱コンクールも。「私は音楽が出来るから認めてもらえる」という息の仕方を覚えました。
そして、「怖くない、大丈夫」のおまじないを唱えながら、新たな居場所もつくることができた。
そして、音楽を通じて学んだことは、「ダメでもいい」ということで。
上手く吹けなくたって、いい。悔しいけど。
よくできた団長じゃなくても、いい。悔しいけど。
それでも必要としてくれる人だっていたから。
音楽を通じて出会った人たちと、たくさんの楽しい思い出を作って、たくさんの人から手紙をもらって、やっと自分を認められるようになりました。
「自分=ダメ・嫌われる・最低」のラベルが、やっと剥がれてくれたのです。
そのラベルが剥がれたら、世界を見る目が変わりました。大袈裟ではなく。
自分を最底辺に位置付けて、周りを敵・味方で区別をしないと生きていけないほど弱かった私が、がむしゃらにがんばるうちに、敵味方の区別をしなくても良くなったのです。
みんな良いところもあって悪いところもあるという、当り前のことに目を向けられるようになったのです。一人の人間を善悪でカテゴライズなど出来ないということに、気づいたのです。
今思えば私は、善悪・美醜・正誤などの様々な物差しを、「好き嫌い」で一緒くたにしていました。
善い人だから好かれる。悪い人は嫌われる。
美しい人だから好かれる。醜い人は嫌われる。
正しい人は好かれる。間違った人は嫌われる。
私は「嫌われる人間」だから、悪くて、醜くて、間違っている。
そんな滅茶苦茶な物差しの当て方をしていました。
人間誰しも間違いはある。
醜くても好かれる人はいくらでもいる。
いつでも善い人でなんかいられない。
私も、同じだ。
多様な物差しの当て方があることに気づいたのです。
そうやって、私は自己否定のループからどうにか抜け出すことができたのです。
最後に。
私はようやく自己否定のループから抜け出すことが出来ました。
いじめを受けはじめた5歳の頃からループにハマって、小中とさらに集団無視を受けて、大学生の22歳になってやっと抜け出せました。長い闘いでした。
いじめられさえしなければ、こんな闘いをしなくてよかったのかもしれない。
こんな経験をしたから辛い人のことも分かるかもしれないけれど、やっぱりループから抜け出しても辛いものは辛いのです。今もうっかりそのループに戻ってしまいそうな時がある。
だから、いじめなんて絶対に反対だし、あの頃私の事をいじめたという事実は消えないし、そのこと自体を許すつもりもありません。
だけど、いつまでも怨み呪い続けられるほど、私はエネルギッシュではありません。幸い、どうにか救われましたし。
なので、許しはしないけれど、もうその人たちのことを積極的に呪おうとは思いません。
私は、そんな呪いではなく、日々を健やかに生きる「お呪い」を覚えたので。
「怖くない、大丈夫」のお呪いは、もう唱えなくても大丈夫なほど、今の私のことを生かしてくれています。
だから、大丈夫。
「私」おわり。